アパレル勤務後、銀座・京橋にて、友人が経営する『きら家』を手伝ったのをきっかけに、食の道を志す。
各界の著名人も集う、広尾の隠れ家的存在だった『春秋・響』で修業中、現地の料理教室への参加のため ベトナムを訪れ、衝動的にそのまま住み着く。
風の通る海辺のレストランで働きながら、ニャチャンで1年遊学。
翌年、参加した料理教室を手伝うためホーチミンへ。
当時スラム街と呼ばれていた4区に間借りして1年半を過ごし 2000年に帰国。
帰国後、日本に対する逆カルチャーショックで、ひきこもること半年。
やっとの社会復帰を決めた派遣先で、まさか!の投資を学ぶ。
2002年、結婚。
2003年、暑い夏の日、一卵性の双子の男児を出産。
目黒・川崎・横浜を経て、2012年秋、宮崎県へ移住。
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一番好きな果物は、梨。
病気の時に食べたいのは、春日堂のドーナツ。
今行きたいのは、台湾。
見ていたいのは、桜。
お金持ちになって買いたいのは、毛糸。
神奈川県生まれのさそり座、極度の方向オンチ。Vege8 DEO。
都会育ちの私には畑はどこも同じで、「畑」という一括りでしかなかったけれど。
綾で暮らすうちに「畑はキャンバス」と気づき、最近では「畑はステージ」なのだと思っています。
その細やかな芸術性の高さ・誇り・感動。
ひとつとして同じ場面は無く、スポットライトもカーテンも無いごまかしの利かないステージ。
人知れず、聞き取れないくらいの音で、物凄い事が起こっているステージ。
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小学生のころから、私は人参が大の苦手、嫌いな野菜No.1でした。
毎年夏休みになると、私は兄と一緒に父方の祖母の家に長期間預けられ、子供のいなかった伯母が、私たちをいろいろなレストランに連れて行ってくれました。
なかなかメニューを決められない私に、伯母はいつもハンバーグを注文するのでした。
当時、どの店でも、ハンバーグにはあの、甘く煮たにんじんの輪切りが添えられていました。メニューを決められないだけでなく、なかなか食べ終わらない面倒な小学生だった私は、この恐ろしい人参とにらめっこするばかり。
伯母に圧倒的な使命感で完食を言い渡され、どれほど困ったことか、今でも鮮明に思い出すことができます。
ぐんにゃりとした食感、奇妙な甘ったるさに顔は歪み、喉元は圧迫され、人参が、もっともっと嫌いになって、涙を浮かべていました。
今なら輸入・冷凍だとわかります。
いつ・どこで・誰が作ったのかもわからないのです、 いくら小学生でもおいしいはずはありません。
大人になるにつれ、料理上手な母のおかげで、自然にいろんな種類の野菜を食べられるようになっていきました。
それでもずっと、私の食べられる人参料理は唯一、千切りにした人参の天ぷらだけでした。
そんな私が、農家に嫁いだのです。長い間、無農薬栽培で人参を作ってきた農家へと。
お母さんの作る人参は、町の内外でも、とーっても有名で、味が濃く甘く、それまで知っていた人参よりも、なんだか、ぎゅーっとしていました。
いつものように天ぷらにしてみると、その違いがよくわかりました。
まるでお菓子のように甘く、えぐみなく、生き生きとした歯ごたえがあり、私と同じく人参が苦手の次男がやがて、作ってる横からつまみ食いをするようになりました。
人参ににリンゴや柑橘類を加えて、ジュースを作ってみても、最初はコップに1cmしか飲めなかったのですが・・・。
ある日ふと、リンゴの甘さが、微妙に邪魔に思えてきて、潔く、でも、恐る恐る・・・人参だけの状態を試し飲みしてみました。
えっ?!という小さいけど、絶対的な確信に似た驚き。
人参だけで絞ったジュースの、すっきりとしていて、奥行きのある甘さと言ったら!他に例えるものがみつかりません。
ついにコップ1杯、余力を残して飲み干してしまいました。
野菜と果物の違いって、本来ほとんど無いのだと、旬に収穫する野菜ごとに思い至ります。野菜こそ、甘い食べ物。
新鮮な人参の本来の美味しさを知ってしまってから 、さまざまな料理本の中の、あらゆる人参料理が、俄然おいしそうに見えてきました。信じられない! 「私は、あ~んなに、人参が大嫌いだったのに~っ!?」
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~新鮮な人参(野菜)を、もっとおいしく食べていただきたくて、もっと知っていただきたくて、レシピのリレーを始めました。
”あの人”たちに教えてもらった、絶品レシピの数々。いつまでも、いつまでも、Vege8の宝物です。バトンで繋がったご縁に、心から感謝しています。
We are what we eat. ~私たちは、食べたものでできている。
さぁ、なにを選んで食べますか? 選んだものを、どう食べますか? とても大切な人たちと。